西の京山口と大内氏
ニューヨーク・タイムズ紙で2024年に行くべき世界の52カ所のなかで3番目、日本からは唯一山口市が選ばれた。選ばれた理由は香山公園にある「国宝瑠璃光寺五重塔」や「山口祇園祭り」「湯田温泉」などの文化遺産があり、町がコンパクトにまとまって混雑しない点とあるが、選ばれた事に山口市民が喜ばしい反面、戸惑っている事がテレビで写されていた。
しかも現在瑠璃光寺の五重塔は檜皮葺屋根の全面工事を行っていて、その姿は幕で覆われて見えないが、改修の様子が見学出来る事をアピールしている。
これを機に私なりに大内氏が築いた山口市の歴史と魅力をまとめてみようと思う。
大内氏は百済の聖明王の子が日本に移住して聖徳太子から多々良氏の姓を賜ったと言われているが、どうも朝鮮との貿易を有利にする為の後世の大内氏の創作のようだ。多々良氏は平安時代末期には、在庁官人として歴史に登場し、周防の大内に住んだことから大内氏を名乗る。鎌倉時代には実質的な周防(山口県の東半分)の支配者となるが、大内氏が力を付けたのは、香山公園に銅像がある大内家の第9代当主大内弘世(1326~1380)が、長門の守護厚東氏を滅ぼして、足利尊氏から防長二国の守護職に任じられて、山口に本拠地を移した頃からになる。第10代義弘(1356~1400)の時に九州制圧に従軍し、山名氏の反乱(明徳の乱)でも活躍する。南北朝統一にも労を取り、周防、長門、和泉、紀伊、豊前、石見の6カ国の守護大名になった。また李氏朝鮮との貿易を行い初期の最盛期を築くが、足利義満と対立して戦死する。義弘の弟、第11代盛見(1377~1431)が幕府の軍勢を破ったため、仕方なく義満は周防、長門の守護に追認した。第12代持世(1394~1441)、第13代教弘(1420~1465)を経て実力を付け、応仁の乱の時は、第14代政弘(1446~1495)が山名宗全没後、西軍の事実上の大将になり、管領代として室町幕府の中核をなした。雪舟庭のある常栄寺は弘政の別邸として建てられた。第15代義興(1477~1529)の時に足利義稙を擁して上洛し、室町幕府の管領代になり、七カ国の守護大名になる。山口市の西には義興の館の凌曇寺跡があり、その広大な寺院跡が発掘されている。第16代義隆(1507~1551)の時代に、周防、長門、石見、安芸、備後、豊前、筑前を治める西日本随一の戦国大名になり最盛期を迎える。フランシスコ・ザビエルを招き山口でのキリスト教の布教を許し、京から公家や文化人を招き、西の京として大内文化が花開いた。因みに義隆の正室貞子は万里小路秀房の娘。
しかし文治政治に不満を抱いた陶晴賢の裏切りにより、長門の大寧寺で自害して果て、事実上大内氏は滅びた。陶晴賢は毛利元就に滅ぼされて、大内氏の館や寺院は焼け落ち、再建された寺院の規模は大幅に縮小した。大内氏の菩提寺興隆寺は当時は広大な敷地が氷上山全体にあり、多くの堂塔や僧坊があったそうだが、今では妙見社と仏殿が残るだけで、知らなければ大内家の菩提寺と気が付かないかも知れない。毛利家は藩を萩に移し山口は衰退して行く。
大内氏は地方の在庁官人から成り上がった家系で、実力はあるが貴人の血筋ではなく、それだけに京の都に対する憧れや、官位が欲しかったのかも知れない。
室町時代の人口を調べてみると、山口は1400年から1500年頃には京に次いで人口が多く、約4万人が住んでいて西の京と言われるほど栄える。山口は京に模して碁盤の目に作られて、一の坂川を鴨川に見立てて町作りをしている。京の地名も多く残る。山屋としては厚東氏の居城の宇部市の霜降山や、大内氏の一族であった鷲頭氏の下松市末武城山(古戦場跡)や、大内教幸(道頓)の居城萩市髙佐の陣館山や、義隆が晴賢に追われて県庁裏の山を巡り峠から長門に逃げた道など、大内氏所縁の山々を登るのも面白い。また東鳳翩山に登ると山口市が一望出来る。
今回大内氏の歴史をまとめた事で、室町幕府と大変関係の深かった大内氏の京への憧れや町作り、文化がよく分かった。
最後に山口県は三方を海に囲まれて、下関のふぐ、萩市の甘鯛やサザエ、瀬戸内海のヒラメや車海老など魚介類も新鮮で美味しい。チョコレートの消費量は日本一らしい。この機会に是非山口市を訪ねてみては如何だろうか。
義興の館の凌曇寺跡 大内氏の菩提寺興隆寺