柿本人麿所縁の地を巡る
梅原猛著「水底の歌」の本を読み、万葉集や万葉歌人の柿本人麿に興味を持ち人麿所縁の地を歩いた。
先ず斎藤茂吉が人麿終焉の地と定めた、鴨山のある島根県邑智郡美郷町湯抱に向かった。斎藤茂吉鴨山記念館に着くと、入口に「夢のごとき 鴨山戀ひて われは来ぬ 誰も見しらぬ その鴨山を」の茂吉の歌碑がある。柿本人麿辞世の歌「鴨山の 磐根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」と、その前書「柿本朝臣人麿石見の国に在りて臨死らむとせし時、自ら痛みて作れる歌一首」により終焉の地が石見国鴨山にある事は確かだが、鴨山は「邑智郡美郷町湯抱」の他に「益田、鴨島」「浜田、鴨山」「江津、神山」などの候補地があり、未だ終焉の地が特定出来ていない。茂吉は鴨山は江の川上流にあると考えて、二十年掛けて七度、現地を丹念に調査して湯抱鴨山説を唱え学会に発表した。記念館には茂吉の遺墨、遺品、著書、調査時の写真や、鎌倉時代の頓阿作の人麿像等が展示してある。
近くの鴨山公園に上がると、女良谷川の向こうに鴨山が望める。当初の予定通り鴨山に向かった。多少覚悟はしていたが、女良谷川沿いの林道を笹藪を漕いで歩き、南ルートから岩場をよじ登り、笹をかきわけて何とか鴨山にたどり着く。鴨山の山頂は刈られていてプレートが掛けてあるが周囲は背丈程の笹に覆われて展望はない。下山は岩場の危険を考えて北の林道から周回する事にした。北ルートは更に大笹薮で踏跡もなく、地図と磁石と睨めっこしながらやっと林道に飛び出ると言う、私たち夫婦に取っても忘れられない鴨山登山になった。
下山後石見銀山の港、温泉津温泉の旅の宿輝雲荘で一泊する。温泉津は石州瓦の家が連なり昭和にタイムスリップしたような街並みが魚港に続いているが、立派な寺院や神社があり当時の繁栄が伺える。
翌日江津市の椿の里から高角山(島ノ星山)へ登る。高角山(たかつのやま)は人麿が「石見のや 高角山の 木のまより 吾がふる袖を 妹みつらむか」と歌った山と云われている。登山道も良く整備されていて、階段には石州瓦が土留めに使われている。山頂には一等三角点(点名:島星山)が座っていて、高角山の別名島ノ星山に因んだ隕石を祀ったお社もある。隕石に触ってパワーを貰う。山頂からは細長い江津の街並みや、江の川、津ノ浦の白砂、真っ青な日本海が一望出来る。
落ち椿と桜の共演する椿の里を後にして、近くの高角山公園に寄り、人麿と依羅娘子(よさみのおとめ)の銅像を眺める。この銅像には工夫があり、依羅娘子の銅像の台座が動き向きを変えられる。スイッチを押すと、上京して行く人麿と見送る依羅娘子の像が離別の石見相聞歌を高らかに謡いあげる。
帰路人麿も眺めたであろう大崎鼻の半島からは、西に石見海浜公園の白い砂浜がつづき、東に津ノ浦海岸や先ほど登った高角山が霞んで見えている。(2024年4月8日、4月9日)
日を変えて益田市の人麿所縁の地に向かう。まず比礼振山(ひれふりやま)に登る。比礼とは古代の女性が用いた両肩にかける布で、振ると波を起こしたり害虫や毒虫を払う呪力があると信じられ、また女性が別れを惜しむ時に振ったりもした。惣八幡宮を起点にして南コースから登って行く。山道を登って行くと車道に出合い、中腹に佐毘売(さひめ)山神社がある。902年授位正四位を賜った当地方最古の延喜式内社で、当初比礼振山山頂にあったが、1660年に現地に移されたと説明板に書かれている。山頂は広く蔵王権現社が祀られて、鉄塔の横の小高い笹の中には三等三角点(点名:権現山)があり、人麿も雪舟もこよなく愛した山で石見八景に数えられている。
展望所からは益田の市街地が一望出来る。益田市は島根県の西端で山口県の萩市と県境で接していて日本海の西には萩市須佐の高山や人麿所縁の大道山などが望める。桜散るベンチに座り、何時まで眺めていたい景色だった。
下山後、益田川河口にある鴨島展望地に行ってみる。立派な黒御影に白い文字で「柿本人麿所終焉の地 鴨島跡展望地」と刻まれた石碑があり、説明板には益田沖にあった鴨島で人麿は亡くなったと書かれている。鴨島はこの石碑の約1㎞沖にあったと云われ、1026年の地震と大津波で海底に沈んだ。哲学者梅原猛氏が昭和48年に「水底の歌」で人麿水刑死説を発表し、全国に一大センセーションを起こして、昭和52年と平成5年に海底調査が行われた結果、鴨島が存在した事が科学的に実証され、ほぼ史実であった事が判明した。しかし鴨島と人麿終焉の地との関係が未だに伝承のままになっている。聖武天皇時代に鴨島に建立された人麿神社が地震で沈み、人麿像がここから北の松崎に漂着し、松崎に柿本神社が建てられ、1608年に徳川秀忠の命で造営されたが、1681年津和野藩主亀井茲親によって現在の高津柿本神社に移された。
柿本人麿辞世の歌「鴨山の 磐根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」と、依羅娘子が人麿の死を聞いた歌「今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも」と、その返歌丹比真人(架空の人物)「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ」から考えると、誠に奇妙で通常の死とは考えにくいと梅原猛は述べている。
高津柿本神社に参拝して万葉公園を散策する。高津柿本神社は正一位柿本大明神の神位を持ち、入母屋の本殿は県建造物文化財で、疫病防除、開運、学問、農業、安産、眼病治癒、火防などのご利益がある。隣接する万葉公園を散策して、小高いベンチで展望を楽しむ。左手に日本海、中央には茶色の石州瓦の目立つ益田の街並み、右手には先程登った比礼振山が望める。
最後に戸田柿本神社に向かう。この地は人麿が生まれた地と云われるが、一説には人麿は百済から逃げて来た渡来人とも云われている。万葉集は漢字で書かれているが、人麿の歌には枕言葉が多い。意味を持たない枕言葉や、地名、漢字を崩すと表に歌われている歌とは違う裏の真実が巧みに読み込まれている。それは藤原不比等の政権を批判した内容で、古代朝鮮の生活様式や仕来りから漢字に巧みに隠されている。
戸田柿本神社参拝後、100m離れた人麿遺髪塚を訪れた。柿本人麿は日本書紀や古事記には官位五位以下の貴族という事で名前が出てこない。また「死す」の言葉(四位、五位の貴人場合は卒すを使う)から身分の低い人とされていたが、梅原猛は「水底の歌」で宮廷歌人の人麿の官位が低いとされる事に疑問を持つ。柿本朝臣佐留(従四位)が人麿と死んだ年がほぼ同じ事から、柿本人麻呂=柿本朝臣佐留=柿本猨=猿丸太夫と推論を展開している。人麿は益田では人丸さんとも言われ親しまれているが、人丸が無実の罪を着せられて、鴨島で水死刑に処せられ、猿丸に改名され卑しめられた可能性があると述べている。人麿の死後祟りを恐れて、官位を上げ、万葉集に多くの歌を載せて人麿の霊を鎮めたという推論は実に興味深い。「石見の海 打歌(うつた)の山の 木の間より わが振る袖を 妹みつらむか」と歌われた大道山(打歌山)もここから近い。
柿本人麿所縁の地を訪ねたが、謎は深まるばかりだ。次回は最後の候補地、石見の国府が有ったと云われる浜田を訪ねてみたい。(2024年4月13日)
少し間が空いたが、人麻呂の終焉地の最後の候補地浜田を訪れた。飛鳥時代の鴨山は、江戸時代に浜田城が建てられ縁起が良いと言う事から鴨山から亀山に改名された。また浜田川は石川と呼ばれていた。人麻呂と依羅娘子の和歌から唯一鴨山、石川の地名が明確なこと、当時石見の国府があったといわれる伊甘神社からも近いのでこの説がある。
当日柿本人麻呂が眺めただろう大麻山、漁山に登り、浜田のビジネスホテルに宿泊して、翌日浜田城址や、伊甘神社、石見畳ヶ浦を見学して本明山に登り、有福温泉よしだやで70歳の誕生日を迎えた。
大麻山は別のピークに一等三角点(点名:大摩山)がある。大麻山の山頂からは、南西に三隅発電所やその先には山口県萩市須佐の高山が見える。穏やかな日本海を正面にして、北には津摩漁港や周布町が見えるが、浜田市街は木に隠れている。北東は三瓶山の方向だが目を凝らしても見えない。
漁山は文字通り、浜田沖の日本海から漁師や船頭が目印にした山で、人麻呂の時代は道がそれ程整備されていなかったと思われるので、沿岸を船で移動したことが考えられる。時代は下るが江戸時代浜田は北前船で大いに栄え、海上交通の要の町でもあった。漁山山頂には浅間神社があるが、すでに御神体は下ろされて何もなく小屋のようになっている。山頂には十国山頂上と書かれた大きな標識と、反射板があり浜田沖の日本海が良く見えた。
翌日浜田城址に登ると、昨日登った大麻山が望め、場所を変えると北前船が寄港した松原湾や外ノ浦が眼下に広がる。下山後浜田資料館(御便殿)に寄るが、人麻呂との関係は見つからず、館内の受付の方に聞くと、人麻呂は益田ではないですかとの応えだった。
伊甘神社には国府趾の石碑があったが、移動された石碑でこの一体の下府町に国府があったそうだ。石見畳ヶ浦は海に吐出した標高50mの丘陵の先端に位置して、波に寄って侵食された海食崖や、千畳敷と呼ばれる隆起した海岸が広がり、ひょっこり瓢箪島のような腰掛け状の岩は貝殻の化石から出来たものだそうだ。また畳ヶ浦は心霊スポットとしても有名で、洞窟には観音像が祀られた御堂があり、多くの地蔵が海に向かって並んでいる。
見学後、益田氏の居城があった本明山に登ったが、日本海や高角山、大江高山、三瓶山、雲井山や広島県境の山々が一望出来き、一時人麻呂を忘れて展望を楽しんだ。
有福温泉は山陰の伊香保とも言われて、山間にある鄙びた温泉地だが、名湯として知られている。(2024年6月13日、14日)
今回で人麻呂終焉地と言われる斎藤茂吉説の島根県邑智郡美郷町湯抱の鴨山、梅原猛説の益田市沖の日本海に沈んだ鴨島、石見国府の近く鴨山、石川の地名が文献に残っている浜田説を巡り、所縁の地とされる江の川、津ノ浦、大崎鼻、石見畳ヶ浦、石見国府跡、亀山、浜田川、高津柿本神社、戸田柿本神社、人麻呂遺髪塚、高津川にも行ってみた。人麻呂が眺めただろう鴨山、高角山、大麻山、漁山、比礼振山、大道山にも登り、斎藤茂吉鴨山記念館、高津神社資料館、浜田城資料館などの資料も読んで、個人的には益田市の沖に沈んだ鴨島が柿本人麻呂の終焉地と思った。
今回の柿本人麻呂の終焉地を巡り、飛鳥時代に想いを馳せ、多くの万葉集も読みとっても有意義だったし、改めて石見の素晴らしさを発見した旅だった。
三首の歌の現代訳
鴨山の 磐根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
(鴨山の岩を枕として死んでいる私を、何も知らずに妻は待ちつづけているのだろうか。)
今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも
(今日か今日かと私が待つ貴方は石川の貝に混じって倒れているというではありませんか。)
荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ
(荒波に打ち寄せられて来る玉を枕辺に置いて私がここに眠っていると誰か知らせてくれたのだろうか。)
改名された例
道鏡により一時、和気清麻呂→別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)に改名され大隅国に流されたが、道鏡失脚のち桓武天皇により昇進して従四位下に除せられる。
蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿なども明らかに改名されていると思われる。